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53話 淵を離れて

Author: 白蛇
last update Last Updated: 2025-12-17 17:02:47

 湖の方から、かすかな水音がしていた。支度を終え、洞の入口へ向かおうとしたとき、瑞礼は足を止めた。

 緋宮の姿が湖の縁にあった。銀の髪が雪をはじき、背はまっすぐ水面の方を向いている。初めて出会った夜の光景が、そのまま戻ってきたかのようだった。

 ただひとつ違うのは、その肩に宿る影の重さだ。かつては氷雪のように孤高であった背中が、いまはどこか、人の世の重力を帯びて見えた。

 声をかけるべきか、瑞礼は迷った。けれど足は吸い寄せられるように、緋宮の方へと進んでいた。

 岩陰に身を寄せれば、緋宮の横顔がわずかに見える。金紅の瞳は水面ではなく、その少し先、霧に沈んだ淵の深奥しんおうを見つめていた。

 沈黙がしばらく続いた。やがて、低い声が雪と水のあわいに滲んだ。

「……人は、守るために滅ぼすのか」

 その一言に、瑞礼の胸が震えた。緋宮の声の色はいつもと違っていた。嘲りでも怒りでもない。ひどく疲弊した、人の嘆きのように聞こえた。

「誰かを救うために、別の誰かを沈めるのか」

 湖の面に、鈴の音がかすかに反響した。捧げられた贄たちの影が水の底で揺らいでいるような気がした。封を弄り、理のために人を沈めてきた朝廷の姿と、これから自分たちが踏み入ろうとしている都の光景が、瑞礼の頭の中で重なり合った。

「そんな理を、俺はもう見たくない」

 最後の言葉はほとんど吐息だった。

――緋宮様は、見てきたのだ。神として、数え切れないほどの「守るための滅び」と、「救うために沈められた誰か」を。

 瑞礼は手のひらをぎゅっと握りしめる。呼びかけたい。あなたは何も悪くない、と。そんな理を見せてきたのは人間だ、と。

 けれど、その言葉もまた誰かを赦して誰かを責めるだけの理になってしまう気がして、言葉は喉の奥で凍りついた。

 緋宮の肩がかすかに動いた。

「聞こえているぞ、瑞礼」

 振り向きもしないまま、低い声が言った。

 瑞礼は息を呑んだ。

「……すみません。声をかけるべきか迷って……」

「別に、隠れていたわけではあるまい」

 ようやく、緋宮が振
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